医師と患者の狭間で
第1話・ある夏の日の思い出
第2話・HBウイルス感染者の苦悩
第3話・ある卵巣腫瘍患者の死
第4話・十代の妊娠
第5話・外来における医師の立場、患者の立場
第6話・胎児異常をめぐって
第7話・男女産み分けをめぐって
第8話・産婦人科救急医療
第9話・幼児からの手紙
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ある夏の日の思い出
やけつく砂。きつい真夏の日差し。繰り返す波の音。そして、無気味なほど静まりかえった沈黙。
私たちを取り巻く人々は、一言も語らず、彫像のように立ちつくしていた。その夏の一日が、私にとって生涯忘れることのできぬ、医師としての第一歩だった。
医学部を卒業し、私は内科・麻酔科研修と産婦人科専門医としての研修カリキュラムを選択し、同僚と酒をくみかわしながら、青臭い議論を日夜たたかわせていた。[治療医学]中心の医学教育に対し、[予防医学]の必要性、患者のための医療を主張していた私は、しかし“医師免許があってもなにもできない医師”にすぎなかった。そんなある日のこと。
突然、日直室の電話が鳴った。消防署の救急隊から「海岸で病人が出たが、他の医師と連絡がとれないのでいっしょに来てほしい」との要請であった。
病人の状況を聞く余裕もないまま、救急車に乗り込んだ。日和山(ひよりやま)海岸までの車中で、海水浴客が溺れたための救命救急出動と聞かされ,サーッと血の気が引いた。まだ、救命処置のいろはも身についていない未熟の医師である。そのとき考えたことは、もし生きていたらどうしようという、医師にあるまじき思いだった。
救急車はあっという間に浜辺に着いた。車から降りると、海辺には二重三重の人垣ができていた。“これはえらいことだ”と思いながら、人垣を分けて中に入った。すでに、日赤救護班の人たちが、人工呼吸、マッサージをしていて医師の到着を待っていた。視線が白衣を着た私に集まるのを感じた瞬間、心臓の鼓動が白衣を通して、透けて見えるのではないかと思うほど高まり、手に脂汗がにじんだ。
動揺した私の最初にとった行動は、往診カバンから血圧計を取り出し、患者の腕に巻く動作だった。患者に触れると、真夏の昼間なのに生臭い、異様な潮のにおいを感じて、初めて我に返った。血圧計を砂の上に投げ出して、慌てて脉(みゃく)をとり、瞳孔を診た。脉は触れず、瞳散(どうさん)し、すでに溺死の状態にあった。「死亡しています」と言って、死亡確認の時刻を告げた。それを聞くと救護隊員たちは、“とっくにわかっていた”と言いたげに、処置を止め、引き上げた。車中でも無言のままだった。
あの暑い夏の日の、ぶざまな自分の姿は、永遠の一瞬として、今なお私の心の中に深く突き刺さったままである。
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HBウイルス感染者の苦悩
※ HBウイルス
=hepatitis B(HBウイルス)感染によって起こるB型肝炎
近年、AIDSが世界的な問題となっているが、患者の人権、人格は無視され、非人間的な
扱いがされてはいないだろうか。私がHBウイルスの問題に取り組んだ頃も、同じような状況にあったと思う。
当時は、HBウイルスの[キャリアー妊婦]を見つけだし、[キャリアー妊婦]から生まれた子どもの追跡調査が主な研究内容であった。感染予防や感染した子の治療法が確立されていない状況での仕事は、多くの問題を抱えたまま進められた。
その頃、HBウイルス抗原陽性者の枕もとの名札には、[Au抗原(+)]と赤字で記入され、同時に手洗い用の容器、食器はもちろん別扱いとされていた。当時、保健所勤務の看護婦が出産し、見舞いに訪れた同僚がたまたま名札の表示を見たため、その後職場に戻っても、食事やお茶を共にすることができなくなったという。HBウイルスを正しく理解し、指導していかなければならない立場にあった職場でさえ、そんな状態であった。
私たちは、[HB外来]という専門外来を開設し、子どもたちの追跡調査はさらに進められた。多くの母親たちは、治療法の確立を願って、泣いて嫌がるわが子を採血に連れて来てくれた。好意的な協力だったと今でも感謝している。
そんなある日、新聞の片隅に<母が子どもを刺し自殺>という記事が載った。私がアパートまで採血に行った親子であったので、その時のショックは今でも忘れることができない。周囲からどのような扱いをされていたか聞かされていたばかりに・・・。
またこんな例もあった。2時間以上も車に乗って採血に訪ねた先の患者宅。夫は某新聞社の記者だった。
「どうせ治療法はないんでしょう!それならそっとしておいて欲しい」と言う妻。しかし夫は、二人の子どもがこれから就学するという時期だったので、「学校で検診や予防接種など施行される時、どのように対応したらよいか」と冷静にアドバイスを求めてきた。HBウイルスの母児間感染の実態がようやく分かり始めてきた頃であった。
私は、HBウイルス感染の基本となるものは感染予防と信じていたので、知る限りの説明を行った。納得した父親は、嫌がっていた子どもたちを含め、家族全員の採血をさせてくれた。終わってから出されたお茶を何のためらいもなく飲み終えた時「先生は飲まないかと思いました」と言ったその家の奥さんの言葉は、今でも強く心に残っている。
今では、公費でHBウイルス母児感染予防対策がとられているが、治療や予防対策のない問題に取り組む時、医者としてより医学者としての姿勢が当然のことのように出てしまう。いちばん悩んでいる当事者のことなど忘れて・・・。反省ばかりの生活が今も続いている。
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ある卵巣腫瘍患者の死
新潟の5月といえば、水田は一面緑の絨毯(じゅうたん)と化し、畑のあちこちには色鮮やかなチューリップが咲き乱れ、いちばん過ごしやすい時期である。
連休が明けたある日、大学の臨床実習の講師として学生たちとグループ・ミーティングをしていた時のことである。突然、電話が鳴り「すぐ病院へ帰ってください!」という緊迫したメッセージを受け取った。治療点滴中だとばかり思っていた患者さんが、突然自殺したという知らせに「しまった!」と思わず絶句し、目の前が真っ暗になった。
その患者さんは36歳の主婦で2年前に手術をしたが、かなり進行していた。そのため、今回は3回目の再発入院だったが[がん告知]はしていなかった。彼女には、腹膜炎で腹水が少したまったので、炎症を治すための治療が必要だと説明した。内容を見られないように、注意してカルテを閉じたつもりだったが、その直後に
「やっぱり私は●●がんだったんですね!」と泣き崩れてしまった。
原因はすぐに分かった。修正液で消された白い所に書かれた[卵巣癌]という保健病名を見てしまったのである。
「●●がんではないんですよ」という言い訳は通用しなかった。しばらく無言の時が過ぎた。やっと気を取り直し、入院の承諾をして、治療前の検査も無事終わった。5月の連休には外泊し、子どもたちと楽しい日を過ごし、喜んで帰って来た。それを見て内心ホッとし、大学に出かける前に、治療点滴をしてきたのに。
治療点滴というものは、退院している患者さんにとって、死んでも二度としたくないというくらい辛いものである。そんな苦しい治療にも耐え、治療後始まる脱毛の悩みにも負けずに頑張ってきた患者さんなのに、それがなぜ。
繰り返す入退院、苦しい治療、そんな苦しみにもう耐えられなかったのだろうか。治らない自分の病気のために、夫や子どもたちが犠牲になっていると考えての最後の選択だったのだろうか。
医師として、患者さんには病状を正しく説明し、自らの病気と闘うべきだと考えているが、[がん告知]に関しては、すべての患者さんに伝えることは私はしていない。卵巣癌の場合は、特にそうである。“癌”という一文字が、その人の生き方をまったく変えてしまう。
夫や子どもさんに母親の死を告げた時、何とも言いようのない厳しさを覚えた。しかし、いまだに私にとって[がん告知]の問題の解決はできていない。もうあれから4回目の5月が過ぎたというのに―。
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十代の妊娠
「妊娠しているようだ」と知らされた養護教諭が、長期欠席を続ける女生徒を連れて相談に来たのは4年前の春である。
中学を卒業したばかりの15歳の女の子であった。中学2年の冬から1対1の付き合いが始まり、中学3年の夏に性交渉があったという。すでに妊娠36週になっていた。誰にも相談できないで悩み続け、孤独に耐えていたのだろう。表情は硬く、子どもらしい明るさはどこにも見られなかった。
親と子を含めて再三の話し合いがもたれ、お互いに退学処分などがないようにと配慮され、生まれた子どもは乳児園でお世話になることも決まり、無事出産を終えた。男の子は、将来も同じ気持ちであれば一緒になりたいと素直に話し、高校生活を続けたが、女の子は自ら美容師の道を選び、高校を中退してしまった。お互いに頑張っているものと信じていたが、女の子は再度妊娠して来院した。それからも、暴走族の男の子たちと付き合いを続け、盗難事件を起こし、少年院の世話になっているとの連絡を受けた。
我々が努力したことは一体何だったんだろうと悩みながら、昨年の11月までに32例の若年妊娠例に関係している。結婚したのはわずか11例。中学を出てお互いに職を持っており、それぞれの両親が健在な場合である。未婚のカップルでは、両親が離婚していたり複雑な家庭環境を持つもの8例、相手が暴力団であったものが2例あった。
若年者の妊娠の背景には、多くの問題があり、戦後のアメリカでも大きな社会問題となっている。すでに、十代の性教育に対しては、教壇から一方的に与えられるのではなく、個々の悩みに1対1で対応してカウンセリングを行い、自分で考えさせることが大切だというクリニック活動がアメリカで行われている。
かつて私が大学を卒業して間もない頃、山形県の開業医の先生のところで、集団就職した女の子が妊娠して親元に連れ戻され、中絶手術を受けているのを目のあたりにしたことがある。陣痛が来るたびに泣き叫ぶわが子の手を握り、涙を流していた母親の姿が鮮明に思い出される。今もあの頃と事情は少しも変わっていないのだろうか。当事者だけがひそかに悩み、苦しんで処理されているケースはまだ多いと思う。
しかし、人目を気にしながらもわが子の将来を思い、第三者を交え真剣に話し合う姿を見ると、少しずつだが変わってきているようにも思う。
電話相談などのボランティア活動も活発になってきている。若者の性の問題は根の深い問題をはらんでいると思うが、少しでもこの問題が解決されることを祈ってやまない。
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外来における医師の立場、患者の立場
外来診療は、患者さんと医師が最初に出会う場所である。そこでは、限られた時間で数多い患者さんを診察しなければならない医師と、長い時間待って数分の間に病状を話し、悩みを訴え解決しようとする患者さんとが様々なドラマを繰り広げている。多くの場合、患者さんは受け身に立たされる。
「どうしましたか?」 「出血したんです!心配で・・・」 「診察してみましょう」。しばらく無言の時間があり、
「心配ないと思います。念のため子宮癌の検査をしておきました。1週間後には結果が」 「1週間後ですか?」 と、まだ不安な気持ちをぬぐいきれないまま立ち去る患者さんの背に「お大事になさってください」と看護婦。ホッとする間もなく、別のドラマが始まる。
多くの場合、このように医師から患者さんへの一方的な語りかけのドラマが展開される。患者さんの多くは、自分の病状を悪い方へ悪い方へと思い込み、いろいろな事を相談したいと思って来ても診察室で医師と向かい合うと、限られた時間では相談したい事の1/10も話せないのが現状である。十分に時間をかけて話を聞いてあげなければならないと分かっていても、数の診療を強いられ、検査や薬を出さなければやっていけない現状の医療制度にあっては、ゆっくりと患者さんと語り合うアットホームなドラマは評価されないのである。
だから時にはこんなドラマの展開が。
「もう婦人科には来なくていいですよ!」 と診察を終えて話す医師。診察を終えた患者さんが記録する医師の机に手を置き、顔を伏せて急に泣き崩れた。「どうしたんですか」 「先生はもう来るなと言った。私はどこへ行けばいいんですか」とまた泣き崩れる。事の重大さに驚き、医師は弁解とも言える病状の説明を始める。なかなか納得しない患者さん。血尿があり、内科、泌尿器科で精密検査を受け、異常無いと言われて婦人科に回されてきた患者さんであった。婦人科的にも異常はみられないが、血尿は続いていた。夫に先立たれ、お手伝いさんをしながら独りで暮らす70歳の老女である。「来なくていい」と言われてどうしてよいのか分からなくなったのだという。
ちょっとした言葉。何気なく話したことがドラマを思わぬ方向へと展開させてしまう。限られた時間といっても患者さんの悩みに応えられるのは医師だけである。現状に甘んじてきた医師に、今に“大きなツケ“が回ってくるような気がする。
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胎児異常をめぐって
「妊娠ですよ!よかったですね」と診察を終えカルテに記載しながら話す。
「ありがとうございます。やっとできたんです」と嬉しそうに話す妊婦に、おなかの赤ちゃんが順調であること、次回の来院日を告げる。そんなやりとりをする診察室の光景には、他の科に見られない明るい健康的な雰囲気が漂う。
大きなおなかを両手で抱えながら「先生、私、双子ではないんですか」と不安そうな妊婦。 「先生、男か女かもう判るんでしょう?教えてください。主人がぜひ聞いて来いと言うものですから・・・」。 「そういうことは、そっとしておいたほうが・・・」。 こんなやりとりも珍しいことではなくなってきた。
これは、産科の妊婦健診に超音波診断装置(エコー)が利用されるようになり、妊娠診断や、胎児の発育状況が妊婦さん自身も画像を通して容易に見ることができ、自分のおなかの赤ちゃんに対して関心が強くなってきたことによるものと思われる。
しかし、早い時期に胎児の異常も診断されるために、特に外表奇形を伴うケースではその対応に苦慮することが多い。
妊娠26週で胎児の頭部に異常がみられ、入院検査となったあるケースの場合、不妊症で治療後の妊娠症例だった。入院中のエコー検査でも頭囲の異常発育を認め、胎児水頭症と診断された。胎内治療は無理と判断し、妊娠32週で帝王切開をして出産。新生児は治療を受けるため集中治療室に収容された。
水頭症の場合、脳外科的処置を行っても後遺症無く発育、成長が期待できるのは約20%だといわれている。
出生後の治療に期待し、帝王切開に耐え、痛む傷を気にしながらも搾乳し母乳をためている姿を見て、母親の強さを改めて認識させられた。現在の優生保護法では、胎児の異常を理由にした妊娠中絶は許されていないのである。
もの言わぬ、もの言えぬ胎児の異常を診た時、その事実を夫婦に告げなければならない医師としての苦悩もあるが、それ以上に悩み、苦しむ夫婦の姿を思うとやりきれない気持ちになることが多い。しかし、今まで数多くの同じようなケースに接してきたが、ほとんどの母親たちは一時的には途方にくれても、わが子を胸に抱くと厳しい環境の中で
力強く生きている。そのような姿をみると、これからも患者さんと共に悩める医師として生きていきたいと思っている。
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男女産み分けをめぐって
「先生、男の子を産ませてください」とまじめに言う妊婦がいた。最初の妊娠が子宮外妊娠で、2回目の妊娠で受診した時である。 「そんな事もうどうにもならないでしょう」と笑いながら答え、むしろ血液型不適合妊娠で、すでに感作(かんさ)された状態にあり、流産や子宮内胎児死亡などが心配だと説いた。この時は37週で帝王切開となり女児を出産した。「次は男の子をよろしく」と言って退院して行った。
それから2年後。「先生、今度は男の子が産まれます。元気な子どもが産れますようによろしくお願いします」とニコニコしてやって来た。某医院で精子を分離して男女産み分け方を受けて来たというのである。数日後に流産してしまったが、「次またお願いします」と悪びれる様子も無く退院して行った。その後、間接クームス陽性が持続していたため1年間避妊して様子をみたが、何としても男の子を産みたい希望が強く、妊娠を許可することにした。数ヵ月後、3歳になる女児の手を引いて妊婦健診にやって来た。
それからは、健診の度に「男か女か」と聞いては「よろしく」と言って帰って行く後ろ姿に暗さなどは無く、男の子を産みたい一念を感じた。妊娠36週で抗体価の上昇がみられたため、帝王切開となった。本人には妊娠中告げなかったが、エコーで診断したとおり男児であった。交換輸血を受けなければならない状況にあったが、無事わが子を胸に「次もまた・・・」と帰って行った。寺の跡継ぎができたと喜ぶ夫婦の姿を見て、希望する男の子で本当によかったと一安心した一例である。
最近、どちらかというと「産むなら女の子」と考える夫婦が増えていると言われている。慶応大学でパーコール法により、精子を分離し男女の産み分けを臨床応用し、6例の女児が出産されていると報じられたことがある。男女の産み分けについては、遺伝病(伴性劣性遺伝)への応用価値は認められているが、一般の臨床医が希望者に対して応用するには多くの問題があると思う。
荻野博先生は、夫婦が希望する性の子を得ることは一見計画性があり、合理的であるように思えるが、夫と妻が望む子の性が一致しない場合もあり、人間の性の決定権を持つべきか否か、性を決定される子どもの立場から論じられることが少ない状況に懸念した意見を述べているが、まったく同感である。
近い将来、男女産み分けにも厳格な規制が検討されるものと信じている。
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産婦人科救急医療
もう10年も前のことになるが・・・。朝、家族に見送られ「元気な赤ちゃんを産んでくるからね」と言って家を出た母親が、夕方に帰らぬ人となった時、家族はもとより誰もが信じられないと驚き、嘆き悲しんだ。
昼近く、某産婦人科医院から死産後大出血によるショックで救急車で運ばれた患者さんは、すでに脈も弱く血圧も下降しており、懸命の治療が施されたが大勢の医師・看護婦の必死の努力にもかかわらず、その日の夜に息を引き取られた。夫と4人の子どもを残しての妊婦の突然の死亡は、家族にとってはもちろん、我々医療従事者にとっても大きなショックであった。
「母親の急死が信じられない。もっと早い時期に対応できなかったのか・・・。もっと早く大学病院へ転送してくれていたら・・・」と無念さを訴える夫と家族に、病状の経過説明と遺体解剖を勧めたことを思い出し、産科医療の厳しさを再認識している昨今である。
産婦人科において、緊急を要する事態の90%以上が出血を中心とした産科の異常である。予測が困難で、突然発生し、急変することが多いために、十分な緊急処置が困難なことも少なくない。
本年6月に厚生省の人口動態統計が発表になり、63年度の妊産婦死亡122名と報告された。約10年前(1977年)には404名と発表されており、年々妊産婦死亡は低下している。しかし、今迄何ともなかった妊婦が突然死亡するような異常が生ずると、原因がはっきりしているような場合でもなかなか理解されることができず、いきなり訴訟へ発展することも少なくないのである。夫やその家族にとって簡単に納得できないことだろうと思う。
昔、と言っても終戦後の数年までは、産婆さんを中心に家庭分娩がほとんどであった。夫はもちろん家族との対話が途絶えることの無い環境での出産には、現在よりも危険は多かったかもしれないが、そこには妊婦と産婆さん、家族が一体となっての分娩が行われていたように思われる。
最近は近代設備の整った医療施設での出産が多く、産科異常についても対処できる状況にあるが、近代医療を進めようとすればするほど、患者や家族と医師・看護婦との間に壁ができるように思える。治療医学ばかりに目を向けるのではなく、患者教育を重視した予防医学という点を、特に産科医療にあっては重要な問題として考えていかなければならないように思う。母乳推進を含め、夫の立会い分娩なども可能な限り努力が行われているが・・・。
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幼児からの手紙
「とくながせんせい こんにちは あきこはせんせいのおかおをしりません にいがたへあそびにいったら たっちゃんとあいにゆきます。あきこより」
ある日こんな内容の手紙が届いた。別添えで、神戸に移り住んでいるために、子どもの成長ぶりをお見せできないが、無事幼稚園に入った様子などを書いた母親の手紙から、お産をとりあげた一人の主婦を思い出した。忙しい外来診療を終え、医局に戻ってきたばかりの時だったので、気持ちがホッとするひとときであった。
高年齢出産だったのでとても心配していたケースだったが、無事長女を出産し、二度目の時は骨盤位から足位となり緊急帝王切開で出産したので印象に残っていた。「母子手帳を見ながら、大声で叱られたことが懐かしく思い出されます」とも書かれていた。あれだけ心配して、育児に自信がないと言っていたが、子どもさんたちに分娩の時の苦しかったこと、分娩に立ち会った医師や助産婦さんのことなどを話している様子がうかがえて、よかったという気持ちと、一方では身の引き締まる思いもした。
今まで多くの妊婦さんの分娩に立ち会ってきた。真夜中のお産や疲れている時など、不愉快な顔で立ち会ったこともあり、そんな時の妊婦さんの場合自分のお産の時の状況をどんなふうに話して聞かせているのだろうか。知るすべもない。
とりあげた子どもたちは、皆どのような成長をしているのだろうか。二度目、三度目のお産で来院する妊婦さんは、時に子どもを連れてその成長ぶりを見せてくれることもあり、また写真付年賀状を送ってこられる人もあるが、それはほんの少数である。
分娩中には、突然異常が生じて吸引や鉗子(かんし)を使っての分娩となることもあり、緊急帝王切開になることもある。そんな場合、後で障害が起こらないかと不安な日々を送ることも少なくない。
中には、障害を残して苦労されている人もおられるのでは・・・。
二度目のお産でこられたある妊婦さんの母子手帳に<前のお産の時、入院直後よく説明もないまま陣痛促進剤で出産となった。今度は自分の力で出産したい>と書かれていた。母親として、子どもたちに生まれた時の状況を話す際、分娩の苦しかったことなどは忘れて、生んでよかったと喜びを話す母親が多いのではないだろうか。子どもたちはそんな時、どんなことを想像して聞いているのだろう。この手紙を読んで、初心を忘れないように常に自分に言い聞かせ、とりあげた子どもたちのすべてが健やかに育つように願っている。
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